今日は接待茶屋の歴史についてお話しします。
かつて、東海道一の難所といわれた箱根山は、一日がかりでやっと越える急坂の山で、
人も馬も苦難を強いられました。
代金を取る茶屋は何軒かありましたが昼間だけの営業で、
さまざまな通行者が増加するなか、別の施設の必要性が増していました。
箱根西坂に無料で粥や焚火、飼葉を提供する「接待所」が初めて設けられたのは文政7年(1824)のこと。
江戸呉服町の義人加勢屋興兵衛が私財を投じて「人馬施行小屋」として開設し、
冬場の寒気の折など往復する人馬はここでの接待を心から喜び、
急ぎの飛脚もここの豆だけは必ず食べたと言われています。
しかし、興兵衛の基金を貸し付けた利息で運営されていた接待所は資金の回収が不能となり
安政元年(1854)に30年の歴史を一度閉じ、地元では接待所がなくなり大層不便な思いをしていました。
そして明治12年(1879)になると下総国(千葉県)八石教会により「接待所」が再興されます。
教会は江戸後期の農民指導者、大原幽学が初代教長を努め、
農業生産の合理化、農村改革を図る一派でした。
教会と門人達が財を投じで接待所を建て、人々に茶をもてなし、冬には暖をとらせました。
明治34年、門人の鈴木利喜三郎が引き継ぎましたが、間もなく教会の運営が傾き、接待所への送金が途絶えてしまいます。
ここで、使命感の強い利喜三郎は接待所を続けることを決意し、
家族を呼び寄せ、鈴木家の個人経営で運営されるようになりました。
この志に感じ、全国から茶や茶碗などの援助の品が送られ、大変助かったそうです。
鈴木家の人々は箱根竹の栽培や養鶏で運営資金を作り、
自分たちは質素な生活をして並々ならぬ苦労をしていたのです。
この間、道に迷った者、疲れ果てた者など多数の人々が
ここの茶の一杯に助けられ励まされ、また旅立って行きました。
時代の変化の中でも大変貴重な存在だった接待茶屋も戦後は交通網や施設の充実により
東海道の通行量が急激に減り、利用者も減り続けます。
そして昭和43年(1970)ついに接待茶屋の歴史が幕を閉じることになりました。
近年、接待茶屋のすぐ横を通る国道1号線の拡張に伴い、
接待茶屋の建物は取り壊されてしまいましたが、
その後の発掘調査により、江戸末期の井戸や明治期の陶器などが出土しました。
100年以上に渡り、往来する人々に奉仕してきた接待茶屋の森の豊かな自然を私たちは
これからも守り続けていきたいと思います。