2014年07月05日
接待茶屋の歴史もう少し詳しく。
以前に接待茶屋について色々調べたのですが
興味深い部分を抜粋してご紹介します。
まず、江戸後期の1824年11月16日に接待茶屋が営業を開始します。
「営業」と言っても過酷な箱根越えをする旅人に提供された
粥、焚火、飼馬は、なんと無料。
最初に接待茶屋を開いたのは江戸の豪商、加勢屋興兵衛。
私財50両を投じたそうです。
1両が12万円として600万円か・・・。
(無料の営業だから『投資』じゃないんですよねー)
ちなみに当時の看板がどこかに保管されている様です。
21年後の1845年に興兵衛の孫の加勢屋友七の代理人から接待所休止の願書が出されます。
(理由まではわかりませんが・・)
そして更にその23年後、1868年。
明治新政府の「賃借棒引」により、資金が無くなり
接待茶屋は一旦閉じられます。
明治12年(1879)、八石性理教会により、接待茶屋が復活!
名称は「箱根施行平休息所」。
通称 「接待茶屋」。
「性理教会」というのは江戸後期に発足した
農業生産の合理化、農村改革を図る一派。
本拠地は下総国なので現在の千葉県なんですね。
箱根にゆかりがあったのでしょうか?
明治26年には東宮殿下(大正天皇)が接待茶屋で休息されています。
明治34年、性理教会の門下生である鈴木利喜三郎が経営を引き継ぎ
後に妻や子供を呼び寄せ、家族経営になります。
最後まで、この鈴木さん一族が経営をしています。
明治43年にはキセルのラオ用の竹材を販売し始めたとの事。
箱根竹を使ったものだと思われます。
無料で奉仕してばかりでは大変ですからね・・。
大正2年と7年に、それぞれ50円、70円あまりかけて接待茶屋を修繕します。
そして・・・
大正10年頃、田方郡議会から金100円を贈られる。県から表彰される。
いやー、報われた気がしますね!!
かと思いきや・・・
大正12年関東大震災で出入り口が破損
地震の影響で湧水が濁り、一時的に接待できなくなる。
一方で東海道箱根新道が開通します。
国道1号線ですね。
それより前の明治22年に東海道線が開通し、箱根越えをする人が急速に減っていたのです。
昭和5年には北伊豆地震が起こり水源に亀裂が入って、水源が細くなってしまい
接待にも不便が生じます。
昭和7年、箱根竹が一斉に開花!
竹は花が咲くとその後は一斉に枯れてしまいます。
ラオ用の竹はどうなったんだろう・・・。
この頃、鈴木さんは養鶏や野菜作りを開始して、順調に発展したそうです。
(あぁ良かった。)
しかし、またまた災難が。
昭和16年、太平洋戦争勃発により、飼料不足で養鶏は断念せざるを得なくなります。
戦後は時代の移り変わりと共に接待茶屋の利用者はますます減っていき、
昭和45年に閉じてしまいます。
知り合いのおばあさんに「接待茶屋って知ってる?」と尋ねたら
「行った事あるよ。お団子を食べたよ」との事。
無料だったか?の問いには「タダじゃなかった」との答え。
出版されている本などの資料では「一銭もいただかず・・」と書いてありますが
心付けとして置いて行ったものなのか
最後の方は経営が苦しくて料金をいただいていたのか
はっきりとはわかりませんが
接待茶屋を続けるために苦労して貧しい暮らしをしていたそうなので
筆者は少し安堵しました。
(明治天皇がお茶のお礼として支払われた金5両を
頑として受け取らなかったと言われていますので
長い間、一切お金をもらわずに無料で運営していたのは確かです)
今の様に移動や旅行が簡単に出来なかった時代、
度重なる災難を乗り越えて
長い間接待茶屋を続けてこられた方々、
茶碗などを送って支援をして下さった方々がいたというのは
本当に頭が下がる思いです。
しかも、途中、閉めていた期間があるけれども
100年くらい続いていた接待茶屋。
この様な精神を少しでも見習って
「箱根接待茶屋の森づくり協議会」も活動したいと思います。
興味深い部分を抜粋してご紹介します。
まず、江戸後期の1824年11月16日に接待茶屋が営業を開始します。
「営業」と言っても過酷な箱根越えをする旅人に提供された
粥、焚火、飼馬は、なんと無料。
最初に接待茶屋を開いたのは江戸の豪商、加勢屋興兵衛。
私財50両を投じたそうです。
1両が12万円として600万円か・・・。
(無料の営業だから『投資』じゃないんですよねー)
ちなみに当時の看板がどこかに保管されている様です。
21年後の1845年に興兵衛の孫の加勢屋友七の代理人から接待所休止の願書が出されます。
(理由まではわかりませんが・・)
そして更にその23年後、1868年。
明治新政府の「賃借棒引」により、資金が無くなり
接待茶屋は一旦閉じられます。
明治12年(1879)、八石性理教会により、接待茶屋が復活!
名称は「箱根施行平休息所」。
通称 「接待茶屋」。
「性理教会」というのは江戸後期に発足した
農業生産の合理化、農村改革を図る一派。
本拠地は下総国なので現在の千葉県なんですね。
箱根にゆかりがあったのでしょうか?
明治26年には東宮殿下(大正天皇)が接待茶屋で休息されています。
明治34年、性理教会の門下生である鈴木利喜三郎が経営を引き継ぎ
後に妻や子供を呼び寄せ、家族経営になります。
最後まで、この鈴木さん一族が経営をしています。
明治43年にはキセルのラオ用の竹材を販売し始めたとの事。
箱根竹を使ったものだと思われます。
無料で奉仕してばかりでは大変ですからね・・。
大正2年と7年に、それぞれ50円、70円あまりかけて接待茶屋を修繕します。
そして・・・
大正10年頃、田方郡議会から金100円を贈られる。県から表彰される。

いやー、報われた気がしますね!!
かと思いきや・・・
大正12年関東大震災で出入り口が破損

地震の影響で湧水が濁り、一時的に接待できなくなる。
一方で東海道箱根新道が開通します。
国道1号線ですね。
それより前の明治22年に東海道線が開通し、箱根越えをする人が急速に減っていたのです。
昭和5年には北伊豆地震が起こり水源に亀裂が入って、水源が細くなってしまい
接待にも不便が生じます。
昭和7年、箱根竹が一斉に開花!
竹は花が咲くとその後は一斉に枯れてしまいます。
ラオ用の竹はどうなったんだろう・・・。
この頃、鈴木さんは養鶏や野菜作りを開始して、順調に発展したそうです。
(あぁ良かった。)
しかし、またまた災難が。
昭和16年、太平洋戦争勃発により、飼料不足で養鶏は断念せざるを得なくなります。
戦後は時代の移り変わりと共に接待茶屋の利用者はますます減っていき、
昭和45年に閉じてしまいます。
知り合いのおばあさんに「接待茶屋って知ってる?」と尋ねたら
「行った事あるよ。お団子を食べたよ」との事。
無料だったか?の問いには「タダじゃなかった」との答え。
出版されている本などの資料では「一銭もいただかず・・」と書いてありますが
心付けとして置いて行ったものなのか
最後の方は経営が苦しくて料金をいただいていたのか
はっきりとはわかりませんが
接待茶屋を続けるために苦労して貧しい暮らしをしていたそうなので
筆者は少し安堵しました。
(明治天皇がお茶のお礼として支払われた金5両を
頑として受け取らなかったと言われていますので
長い間、一切お金をもらわずに無料で運営していたのは確かです)
今の様に移動や旅行が簡単に出来なかった時代、
度重なる災難を乗り越えて
長い間接待茶屋を続けてこられた方々、
茶碗などを送って支援をして下さった方々がいたというのは
本当に頭が下がる思いです。
しかも、途中、閉めていた期間があるけれども
100年くらい続いていた接待茶屋。
この様な精神を少しでも見習って
「箱根接待茶屋の森づくり協議会」も活動したいと思います。
2013年02月16日
箱根接待茶屋の歴史
今日は接待茶屋の歴史についてお話しします。
かつて、東海道一の難所といわれた箱根山は、一日がかりでやっと越える急坂の山で、
人も馬も苦難を強いられました。
代金を取る茶屋は何軒かありましたが昼間だけの営業で、
さまざまな通行者が増加するなか、別の施設の必要性が増していました。
箱根西坂に無料で粥や焚火、飼葉を提供する「接待所」が初めて設けられたのは文政7年(1824)のこと。
江戸呉服町の義人加勢屋興兵衛が私財を投じて「人馬施行小屋」として開設し、
冬場の寒気の折など往復する人馬はここでの接待を心から喜び、
急ぎの飛脚もここの豆だけは必ず食べたと言われています。
しかし、興兵衛の基金を貸し付けた利息で運営されていた接待所は資金の回収が不能となり
安政元年(1854)に30年の歴史を一度閉じ、地元では接待所がなくなり大層不便な思いをしていました。
そして明治12年(1879)になると下総国(千葉県)八石教会により「接待所」が再興されます。
教会は江戸後期の農民指導者、大原幽学が初代教長を努め、
農業生産の合理化、農村改革を図る一派でした。
教会と門人達が財を投じで接待所を建て、人々に茶をもてなし、冬には暖をとらせました。
明治34年、門人の鈴木利喜三郎が引き継ぎましたが、間もなく教会の運営が傾き、接待所への送金が途絶えてしまいます。
ここで、使命感の強い利喜三郎は接待所を続けることを決意し、
家族を呼び寄せ、鈴木家の個人経営で運営されるようになりました。
この志に感じ、全国から茶や茶碗などの援助の品が送られ、大変助かったそうです。
鈴木家の人々は箱根竹の栽培や養鶏で運営資金を作り、
自分たちは質素な生活をして並々ならぬ苦労をしていたのです。
この間、道に迷った者、疲れ果てた者など多数の人々が
ここの茶の一杯に助けられ励まされ、また旅立って行きました。
時代の変化の中でも大変貴重な存在だった接待茶屋も戦後は交通網や施設の充実により
東海道の通行量が急激に減り、利用者も減り続けます。
そして昭和43年(1970)ついに接待茶屋の歴史が幕を閉じることになりました。
近年、接待茶屋のすぐ横を通る国道1号線の拡張に伴い、
接待茶屋の建物は取り壊されてしまいましたが、
その後の発掘調査により、江戸末期の井戸や明治期の陶器などが出土しました。
100年以上に渡り、往来する人々に奉仕してきた接待茶屋の森の豊かな自然を私たちは
これからも守り続けていきたいと思います。
かつて、東海道一の難所といわれた箱根山は、一日がかりでやっと越える急坂の山で、
人も馬も苦難を強いられました。
代金を取る茶屋は何軒かありましたが昼間だけの営業で、
さまざまな通行者が増加するなか、別の施設の必要性が増していました。
箱根西坂に無料で粥や焚火、飼葉を提供する「接待所」が初めて設けられたのは文政7年(1824)のこと。
江戸呉服町の義人加勢屋興兵衛が私財を投じて「人馬施行小屋」として開設し、
冬場の寒気の折など往復する人馬はここでの接待を心から喜び、
急ぎの飛脚もここの豆だけは必ず食べたと言われています。
しかし、興兵衛の基金を貸し付けた利息で運営されていた接待所は資金の回収が不能となり
安政元年(1854)に30年の歴史を一度閉じ、地元では接待所がなくなり大層不便な思いをしていました。
そして明治12年(1879)になると下総国(千葉県)八石教会により「接待所」が再興されます。
教会は江戸後期の農民指導者、大原幽学が初代教長を努め、
農業生産の合理化、農村改革を図る一派でした。
教会と門人達が財を投じで接待所を建て、人々に茶をもてなし、冬には暖をとらせました。
明治34年、門人の鈴木利喜三郎が引き継ぎましたが、間もなく教会の運営が傾き、接待所への送金が途絶えてしまいます。
ここで、使命感の強い利喜三郎は接待所を続けることを決意し、
家族を呼び寄せ、鈴木家の個人経営で運営されるようになりました。
この志に感じ、全国から茶や茶碗などの援助の品が送られ、大変助かったそうです。
鈴木家の人々は箱根竹の栽培や養鶏で運営資金を作り、
自分たちは質素な生活をして並々ならぬ苦労をしていたのです。
この間、道に迷った者、疲れ果てた者など多数の人々が
ここの茶の一杯に助けられ励まされ、また旅立って行きました。
時代の変化の中でも大変貴重な存在だった接待茶屋も戦後は交通網や施設の充実により
東海道の通行量が急激に減り、利用者も減り続けます。
そして昭和43年(1970)ついに接待茶屋の歴史が幕を閉じることになりました。
近年、接待茶屋のすぐ横を通る国道1号線の拡張に伴い、
接待茶屋の建物は取り壊されてしまいましたが、
その後の発掘調査により、江戸末期の井戸や明治期の陶器などが出土しました。
100年以上に渡り、往来する人々に奉仕してきた接待茶屋の森の豊かな自然を私たちは
これからも守り続けていきたいと思います。